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[日本历史] 「日本」国号の成立

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1#
发表于 4-9-2010 22:03:26 | 只看该作者 回帖奖励 |倒序浏览 |阅读模式

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「日本国」という国号は、日本列島東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来していると考えられる。憲法の表題に「日本国憲法」や「大日本帝国憲法」と示されているが、国号を「日本国」と直接かつ明確に規定した法令は、存在しない。

由来 [編集]
「日本」の国号が成立する以前、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称されていたが、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになった。やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「大和」「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだ。[1]「日本」という国号の成立時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。従来の遣隋使を改めた遣唐使を送り、唐との外交関係を深めていた[2]。その後、672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進めた。そして、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令へと至る。

このような情勢の中で成立した「日本」号だが、具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただ、それを推定する見解は、二説に絞られる。まず一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である[3]。これは、この治世に成立したと解される「天皇」号と同時期に「日本」号も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」号と「日本」号と両方が定められたと推測する[4][5]。もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」号が成立したとする説である[6]。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」号が定められたとしている[7]。『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔に「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[8]。

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[9]。後代に成立した『旧唐書』[10]、『新唐書』[11]にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。国号の変更の事情について、『旧唐書』が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、『新唐書』が「倭が日本を併合し、国号を奪った」としている[12]。いずれにせよ、これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[13]。

『旧唐書』・『新唐書』が記すように、「日本」国号は、日本列島を東方に見る国、つまり中国大陸からの視点に立った呼称である[14]。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行なわれた日本書紀の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[15]。

『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎず、、「日本」国号の成立と無関係と考えられている
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2#
发表于 4-9-2010 22:35:04 | 只看该作者
请那位同学先翻译一下好吗
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3#
发表于 4-9-2010 22:37:37 | 只看该作者
希望大家都能参与和日本有关的话题

不会日文的飘过。。。。。。
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4#
发表于 5-9-2010 14:05:46 | 只看该作者
抛砖引玉,请各位同学批评指正:
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日本国号的成立
【日本国】这个国名一般认为是在日本列岛东部,也就是说在【太阳的根本】这个位置而来的。宪法虽然也有【日本国宪法】或者【日
本帝国宪法】这个称呼,但是没有明确规定国号是【日本国】的法令。
由来
在【日本】这个国号成立以前,中国的王朝称呼它为【倭国】-【倭】,在古代的日本,由【yamato】这个势力为中心统一之后,随着汉
字的引入,利用了【倭】这个汉字,读音为【Yamato】。以后,这个读音为【Yamato】的汉字从【倭】变成了【大和】【日本】,也读
【Yamato】。
【1】【日本】这个国号成立的时期,一般认为是在7世纪后半到8世纪初这段时间。这个时候东亚的618年成立的唐的势力正在扩大,对
周边的诸国产生了很强的影响。以前的遣隋使改成了遣唐使,然后出使到唐,加深了和唐的关系。以后,经过672年【壬申之乱】掌握大
权的天武天皇,推进了以天皇为中心的体制。然后,689年发布了【飞鸟净御原令】,701年(大宝元年)发布了【大宝律令】。(注:
这里边应该都有日本这个称呼)
在这种形势下产生的【日本】这个称呼,具体的成立的时间,没有具体的史料记载。但是有两种说法。一个是说天武天皇的治世(672-
686)成立的。这就是说,在这个治世产生的【天皇】这个称号和【日本】这个称号同时产生的。例如吉田孝认为,689年的【飞鸟净御
原令】确定了【天皇】和【日本】这两个称呼。还有一种说法认为,701年(大宝元年)的【大宝律令】发布的前后产生了【日本】这个
称号。例如神野志龙光认为是大宝令诏书确定了【日本】这个称号。《日本书记》的大化元年(645年)7月条目里提到,给高句丽-百济
的使者的诏书里有【明神御宇日本天皇】的说法,现在认为,这个是《日本书记》(720年(养老4年)成立)的编者根据以后颁布的大
宝律令经过润色加工后的产物。
8世纪上半世纪唐朝的【唐历】中有702年(大宝元年)【日本国】派来的【遣唐使】的记载。以后的《旧唐书》《新唐书》里也有这个
时期由遣唐使转达给唐(武则天,大周)的【日本】这个新国号的记载。这两本书都有【靠近日出的地方国号的由来】,解释国号变更
理由的【不喜欢不大好听的倭国这个名字】等记载。针对国号变更这件事,《旧唐书》说【作为小国的日本吞并了倭国】,《新唐书》
说【倭国吞并了日本,并抢来了日本的国号】。不论根据哪种记述,都能确认702年唐承认了【日本】的国号。迄今为止发现的最古老的
有【日本】国号记录的实物史料是开元22年(734年,日本:天平6年)井真成墓志铭上的记载。
和《旧唐书》《新唐书》的记述一样,也有【日本】这个国号是从日本列岛看起来东方的国家,实际上是说从中国大陆看起来东方的说
法。平安时代初期的【弘仁私记】的序言里,也有日本国是针对中国来说是【日之本】,也就是说在东面的日本的由来的说法,在平安
时代经过数次变化的日本书记讲读的模本《日本书记私记》的各个版本都有从中国观点出发的这个名称产生的说法。
《隋书》的东夷传里,有倭国王在给隋皇帝的国书里以【日出地方的天子】自称的记载,也有这个时期【日出的地方】等说法是【日本
】这个国号的渊源的观点。但是,佛经《大智度典》里有针对【日出的地方】是东方的的另一种表现的记述,现在,认为这只是一种文
字的夸张修饰,和【日本】这个国号的成立没有关系。

[ 本帖最后由 laoqiu 于 5-9-2010 13:09 编辑 ]
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5#
发表于 5-9-2010 14:26:56 | 只看该作者

日本遣唐使墓志证实日本国号与中国渊源

2005年8月24日,惟一一方日本遣唐使墓志在国立博物馆展出时,日本天皇亲临参观。
这是块不同寻常的石头。盖为青石,底是白石,近方形,上有楷书刻字。
李白的挚友阿倍仲麻吕,回国后利用汉字创立片假名的下道真备和为日本完善律法的大和长冈等人,和井真成同时入唐。这些赫赫名声的人,都还只是群十八九岁的孩子。离开故乡之时,井真成多大年纪,墓志上的文字并无记载,只写道,公元734年,这位才能出众的遣唐使,因病死于长安,享年36岁。
  
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6#
发表于 5-9-2010 14:33:50 | 只看该作者
对于这个太平洋上的岛国,中国早在秦汉即有记载,但史籍中多称为“倭国”。井真成入唐时,日本对唐朝文化的认识已经发生改观。这与一次发生在朝鲜半岛附近的战争有关。
  公元663年,日本试图帮助被唐朝吞灭的百济复国,而在白村江口和唐军大战。遭遇彻底失败后,日本发现了和中国的距离。日本学者森公章在近作《“白村江”之后》里说,“白江战败以后产生的这种冲击余波,如同明治维新和二次大战以后一样,可以说是一个举国奔走引进‘敌国’国家体制和文化的时期。”
  自此以后,日本遣唐使到中国来只是倾力学习唐朝文化,不再向朝廷要求册封,甚至甘心于等同“蕃国”,其国策也由过去的地区政治进取转向了内敛、和平、发展的方向。就是在这个时期,年轻的井真成出海,踏上了“衔命远邦,驰骋上国”的路途。
  据《唐六典》记载,当时西域各国“入居长安者近万家”。在公元679年,波斯王子泥俚斯自长安归国,统率的部属就多达数千人。长安的那些著名佛寺中如兴善寺、慈恩寺、青龙寺、香积寺等,都居住着外国高僧。接待日本遣唐使等外国使节的鸿胪寺及用于会客和寄宿设施鸿胪馆,都建在皇城南边的一片广大地区上。它们离皇城南门的朱雀门不远,据说这样设计为了方便访问京城的外国使节,同时也有避免使其与其他官员接触,防止泄漏政治机密的用意。
  作为日本留学生,井真成和阿倍仲麻吕、下道真备等人一律被安排在国子监学习。唐玄宗命国子监的四门助教赵玄默教授这些留学生们的功课。唐朝国子监有六学:国子学、太学、四门学、律学、书学和算学,各学招生对象不同。井真成究竟在哪一个学部学习,这还是个谜团。只知道他的同行者阿倍仲麻吕是在“太学”中学习。阿倍仲麻吕苦学五、六年后,竟在与中国学生一起参加的考试中得中进士。唐玄宗赐名晁衡,并让他担任皇帝侍从官的左补阙。阿倍仲麻吕终身在中国为官,他和李白、王维来往密切,彼此经常写诗唱和,73岁在长安逝世。
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